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島津 忠兼〔名を島津忠廉とする史料もある。〕(しまづ ただかね、大永4年(1524年)? - 永禄8年7月8日?(1565年8月12日?))は、戦国時代の島津家一門。薩州島津家4代当主島津忠興の三男〔薩州島津家3代当主島津重久(成久)の四男との説も。この場合、忠兼は5代当主島津実久の叔父にあたるが、忠兼の姉が島津実久に嫁いだため、実久の弟(義弟)として伝わったか。〕。5代当主島津実久の弟。幼名は近久。源三郎。常陸介。常陸守。野田領主。神号は若宮大明神。 == 経歴 == 紫尾山近辺を支配していた渋谷氏・東郷氏に勝利するなどの活躍をし、兄・実久から野田(現・鹿児島県出水市野田町)に領地を与えられ、新城を築き居城とする。 永禄8年3月24日(1565年4月24日)、6代当主・島津義虎(実久の子)の命を受け、家臣の吉満久張らとともに肥後国天草の長島(現・鹿児島県出水郡長島町)へ出兵。堂崎城主・天草越前守を打ち破って長島・獅子島の両島を攻め取り、薩摩国の領有とした(天草諸島のうち、長島・獅子島および近接する島々は、以降、現在に至るまで鹿児島県の所属となっている)。 以降3ヶ月〔3年とする史料も。〕に亘り長島領主として治世にあたったが、天草越前守の旧臣らの中に忠兼を讒訴するものがあり、それを信じた義虎によって義虎の居城・亀ヶ城へ呼び出され、永禄8年〔永禄10年とも。〕7月8日(1565年8月12日)、登城してきたところを謀殺された(享年42?)。夫人である玉衣の方〔玉衣の方は謀殺されたとも。〕、娘の与里姫(享年22?)は悲嘆のあまり後を追って自害したと伝わる。 その後、野田や長島で疫病や飢饉が大流行し、忠兼らの祟りではないかとの噂が立つ。領内の異変に驚いた義虎は、忠兼の無実と自分の非を認め、忠兼の居城であった新城跡に若宮神社を建立し、霊を慰めたという。以来、疫病は治まったが、命日である旧暦7月8日は毎年祭礼が行われている。 墓所は野田町下名にあった極楽寺内にあったが、昭和37年(1962年)11月にその敷地が鹿児島県野田高等学校(現・県立野田女子高校)の一部となる際、野田町上名の永林寺跡(現・弓林神社)に移された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津忠兼 (薩州家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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